研究内容

当研究室では以下の実験研究を当面のメインテーマとしています。
これらの実験のほとんどすべてにRydberg原子[1]が利用されます。
Rydberg原子が原子・分子・光物理のカメレオンとも云われる所以です[2]

T 原子・分子の量子制御(コヒーレントコントロール)

 以前は先見の明ある一部の研究者達を除きあまり真剣に考えられていなかった、量子系を制御するという概念は、今や当たり前のこととして理解されています。例えば小型化と集積化・高機能化が常に時代の要請であり続けるエレクトロニクスデバイスの技術開発では、それが進めば進むほどデバイスを構成する原子や分子・電子の量子力学的な性質・振る舞いを理解し制御し、且つまた積極的に利用することが必要不可欠と考えられています。
 我々の研究室では原子や分子の関わる反応やその構造などを、レーザーを代表とする電磁波、電場や磁場の外場を用いて可能な限り自由自在に制御することを目標として、そのための原理研究を行っています。同時に、原子や分子それ自身を究極の超小型量子デバイスとして活用することも目指します。電子と異なり内部構造に富む原子を利用してエレクトロニクス技術に代わる次世代技術=アトムトロニクスの実現可能性を追求します。

TA 量子位相同期法
 量子位相同期法は発散しない波束を利用して原子状態を制御する方法です[3]。これは青学・バージニア大学のグループ、及びライス大学・オーストリア工科大学・テネシー大学のグループ[4]の2つのグループが世界を率先して研究に携わっている研究テーマです。
 理論的な解釈はロチェスター大学のEberlyら[5]、欧州のBuchleitnerら[6]、ジョージア工科大学のUzerら[7]、或いはイスラエルのMeerson, Friedlandらです[8]。Meersonらは量子系の内部周波数を外部クロックに同期させながら状態を変化させる物理操作の原理をDynamic Auto Resonance (DAR) と命名し、多くの非線形物理現象の制御に適用可能であることを示唆しています[9,10]
 量子位相同期法は従来の波束を用いた量子制御法、いわゆる波束法と全く異なる原理に基づいた新しい量子制御法であり、将来の展開が大いに期待されます。


TB 多光子断熱高速遷移
 近年我々は周波数チャープ電磁波を用いることで Rydberg原子が10光子以上もマイクロ波を吸って他の状態へ大きく遷移することを見出しました[11,12]。しかも、遷移の効率がほぼ80%という高い効率で、です。この方法を一般的に使用できるならば原子・分子の量子状態を極々短時間に飛躍的に変位させることが可能となります。例えば、高い励起状態にある原子・分子を一瞬にして最も安定な状態、即ち基底状態へと遷移させることも可能となるかもしれません。最近の論文では10光子遷移現象には実は50個程度の光子が現象に介在することが示唆されており[13]、物理学的にも非常に非線形生に富み未解決の部分が山積する興味深い現象といえるでしょう。また古典論の観点からこの現象を理解することも試みられています。




発散しない波束の生成・観測装置の全体図



マイクロ波を100 fsパルスに位相同期させた時の信号

U 極低温Rydbergガスと極低温中性プラズマ

 米国バージニア大学のGallagherら[14]と仏Aime Cotton研究所のPilletら[15]によって同時に開始された極低温Rydbergガスの研究は、その後この系が量子コンピュータの研究に適用可能であることが示唆されて[16,17]以降、世界で注目を浴びている研究対象の一つです[18-21]。その他にも多体効果と長距離相互作用に基づく巨大Rydberg分子の生成[22]、極低温分子生成としての可能性の探索[23]、或いは極低温中性プラズマの研究[24]などの先端研究が欧米では盛んに行われています。

UA 量子コンピュータ
 冷却Rydbergガスは量子コンピュータの原理実験を出来る系として世界で注目を浴びていることは既に述べました。これは極低温に冷却された Rydberg原子の内部状態が長距離相互作用に支配されることに拠ります。このことに起因するブロケード効果を用いると、隣接原子同士に量子絡み合い状態を生成することが可能となります[16,17]。実際2010年には、二つの研究グループから二原子の絡み合い状態の生成及びそれを用いたCNOTゲートのデモンストレーション実験が同時に報告されています[20,21]。実験原理自体は非常にシンプルであり、我々もこの分野への参入を予定しています。既に当研究室ではこの種の実験の基幹装置となる、磁気光学トラップ(Magneto Optical Trap: MOT)の作成を終了し、性能試験を開始しつつある状況です。


UB 量子情報処理
 原子には無限の量子状態が帰属します。この量子状態の一つ一つをメモリーとして利用する可能性を追求します。自由原子はチップ上に一個だけトラップすることができるので、世界最小のメモリーとして活用する可能性も考えられます。原子をHigh-Q共振器中にトラップすることも研究されています。原子をメモリーとして使用する研究の一例には、ミシガン大学のBucksbaumらの行ったRydberg波束に情報を記録する実験があります[25]。本研究室では量子情報処理に量子位相同期法を適用することを検討しています。これは量子情報処理で最も注意を払わなければならない現象である位相の擾乱、即ちデコヒーレンスを除去することを意味します。またMOT中にHigh-Qマイクロ波共振器を配置することも検討しています。


UC Rydberg分子の生成と観測
 極低温に冷やされたRydberg原子間には強い遠距離相互作用が存在し、多体効果に起因する様々な現象や反応が予期されています。例えば基底状態にある原子とRydberg状態にある原子が結合して出来る“trilobite”分子の存在などがその一例です。目下のところ、この種類の分子の観測は殆ど報告されておらず、新しい実験が期待されています。


UD 実験室宇宙物理
 冷却原子或いは、冷却Rydberg原子から生成されるプラズマは、実験室で作り得る最も冷たい準中性プラズマです。当実験室ではこの冷たいプラズマを使った新しい実験を計画しています。例えば宇宙空間で起こる様々な物理現象のうちの幾つかを、極低温プラズマを使って研究する可能性を検討しています。物理・数理学科の宇宙物理理論研究室との共同研究になるでしょう。




Rbの磁気光学トラップ

V 低周波量子光学・原子物理

 基底状態の中性原子は可視〜紫外光など高周波領域に共鳴周波数を持っています。一方中性Rydberg原子はマイクロ波など低周波領域に共鳴周波数を持っています。従って、基底状態の原子と光の相互作用を研究する代わりに Rydberg原子とマイクロ波の相互作用を研究することで、同じ物理を研究できる場合がたくさんあります。
 基底状態にある原子の電子は原子核或いはイオン芯に強く束縛されており、非線形光学現象を観測するためには概ね高強度のレーザーが必要となります。一方Rydberg原子では電子は弱いクーロン力で束縛されており、また隣接準位間の遷移双極子モーメントが巨大であるため、レーザーと比べて格段に弱い強度のマイクロ波でいとも簡単に非線形現象を誘起できます。
 基底状態にある原子の電子運動のタイムスケールはフェムト秒のオーダーですが、Rydberg電子はピコ秒あるいはそれよりも遅い時間スケールにて周期運動をすると理解できます。これは、市販のテーブルトップ短パルスレーザーを利用すれば電子運動の実時間測定、即ち原子中の電子の光電場に対する反応を極めて精密に走査できることを意味します。
 上に述べたことは、低周波領域での非線形量子光学実験が極めて魅力的であることを示唆しています。更に、マイクロ波はレーザーと比べて格段に操作性に優れているため、マイクロ波を用いればレーザーでは実現が困難な類の実験をいとも簡単に実現できることを付け加えておきます。
 低周波量子光学の実験テーマは無数に存在します。実験が簡単なのでアイディア勝負の研究が出来ます。例えば多光子イオン化やトンネルイオン化現象の極めて定量性に富んだ実験研究が可能です。当研究室では現在幾つかの実験プロジェクトが走っています。




低周波量子光学実験装置

W 高強度コヒーレント物理

強度フェムト秒レーザーシステムを利用して、幾つかの実験プロジェクトを実行中、あるいは計画中です。

WA Inner electron ionization (IEI)
 内殻電子の光イオン化により外殻電子の軌道(波動関数)をモニターします。我々は既にピコ秒の時間スケールで運動する電子の様子をIEIにより追跡することに成功しています。


WB 原子波束の物理
 二電子励起波束の実験は二つの電子を同時に制御する原理研究となり得ます。この種の実験は我々の知り得る限りバージニア大学のJonesらの実験しか報告されておらず、今後のブレイクスルーが期待出来る研究です。


WC 同時多電子電離
 高強度レーザー場で引き起こされるトンネルイオン化に伴う非線形現象には未解決の問題が山積します。たとえは同時多電子電離現象がその一例です。本研究室では予め二電子励起状態を生成してから電磁波を照射する、という手法を用いて同時二電子電離の研究を行います。


X その他

原子分光
同位体分離
レーザーアブレーション法
THz超放射
THzハーフサイクル電磁パルスの利用
プラズマ診断
ホログラフィー

References
[1] T.F. Gallagher, “Rydberg Atoms”, (Cambridge Univ. Press, 1991).
[2] R.R. Jones, DAMOP 2003.
[3] H. Maeda and T.F. Gallagher, Phys. Rev. Lett. 92, 133004 (2004).
  (See also, Physical Review Focus, 7 April 2004).
[4] C.O. Reinholdt, J. Burgdorfer, M.T. Frey, and F.B. Dunning, Phys. Rev. Lett. 79, 5226 (1997).
[5] I. Bialynicki-Birula, M. Kalinski, and J.H. Eberly, Phys. Rev. Lett. 73, 1777 (1994).
[6] A. Buchleitner, D. Delande, and J. Zakrewski, Phys. Rep. 368, 409 (2002).
[7] D. Farrelly, E. Lee, T. Uzer, Phys. Rev. Lett. 75, 972 (1995).
[8] B. Meerson and L. Friedland, Phys. Rev. A 41, 5233 (1990).
[9] H. Maeda, D.V.L. Norum, and T.F. Gallagher, SCIENCE 307 , 1757 (2005).
[10] I. Barth, L. Friedland, E. Sarid, and A.G. Shagalov, Phys. Rev. Lett. 103, 155001 (2009).
[11] H. Maeda, J.H. Gurian, D.V.L. Norum, and T.F. Gallagher, Phys. Rev. Lett. 96, 073002 (2006).
[12] H. Maeda, J.H. Gurian, and T.F. Gallagher, Phys. Rev. A. 83, 033416 (2011).
[13] T. Topcu and F. Robicheaux, J. Phys. B 43, 115003 (2010).
[14] W.R. Anderson, J.R. Veale, and T.F. Gallagher, Phys. Rev. Lett. 80, 249 (1998).
[15] I. Mourachko, D. Comparat, F. de Tomasi, A. Fioretti, P. Nosbaum, V.M. Akulin, and P. Pillet, Phys. Rev. Lett. 80, 253 (1998).
[16] D. Jaksch, J.I. Cirac, P. Zoller, S.L. Rolston, R. R. Cote, and M.D. Lukin, Phys. Rev. Lett. 85, 2208 (2000).
[17] M.D. Lukin, M. Fleischhauer, R. Cote, L.M. Duan, D. Jaksch, J.I. Cirac, and P. Zoller, Phys. Rev. Lett. 87, 037901 (2001).
[18] E. Urban et al., Nature Phys. 5, 110 (2009).
[19] A. Gaetan et al., Nature Phys. 5, 115 (2009).
[20] T. Wilk et al., Phys.Rev.Lett. 104, 010502 (2010).
[21] L. Isenhower et al., Phys. Rev. Lett. 104, 010503 (2010).
[22] C. H. Greene, A. S. Dickinson, and H. R. Sadeghpour, Phys. Rev. Lett. 85, 2458 (2000).
[23] A. Fioretti, D. Comparat, C. Drag, T. F. Gallagher, and P. Pillet, Phys. Rev. Lett. 82, 1839 (1999).
[24] T.C. Killian, S. Kulin, S.D. Bergeson, L.A. Orozco, and S.L. Rolston, Phys. Rev. Lett. 83, 4776 (1999).
[25] J. Ahn, T.C. Weinacht, and P.H. Bucksbaum, Science 287, 463 (2000).